2007年 09月 24日
チチ ノ コト ・・・。 |
あれ~??
気がついたらまたまた前回の日記から2ヶ月以上も経っちゃった。。
月日の経つのは早いもので、、、(笑)
実家の父が入院して今日でちょうど10ヶ月になりました。。
以前、私の病気のことを書いたときに父のことも少しだけ書いたように思いますが、、
父の病気は、脳が原発の原因不明の『悪性リンパ腫』であり、
ふつう、『悪性リンパ腫』という病気は他の臓器から脳に転移すると考えられているらしく
今から約6年前に告知されたときには、それは念入りにあっちこっちの内臓を
検査した、、、らしい。。
そして、手術をし、治療をして約5年の間、父はほぼ普通の生活を続けていました。
昨年、ヘルペス(帯状疱疹)で急遽入院することになるまでは、、、
けれど、そのときにはすでに再発をしていたのだ。。
5年もの間、手術を受けた病院で3ヶ月に一度CTを受けていながらわからず、
その入院(ヘルペス)のまえに、なんだかおかしいと本人も言うし、で
治療を受けた病院でMRIを受けることになっていたが、体力が落ちていたのだろう。
先にヘルペスに罹った。そして、行きつけの皮膚科から紹介を受けて
その検査を受ける病院へ急遽、入院することになったのだった。
その頃はまだ、普通に会話が出来ていた。
そして、一度退院して再度検査に訪れたその病院のMRIの結果は
脳に3箇所の再発だった。
CTでは発見できなかったMRIの結果である。
その結果をいつもの脳外科の主治医に報告すると
「さすがですね!」と言ったそうだ、、、
まぁ、それはさておき、父は前回の放射線治療で全脳照射を受けているため
今回はガンマ治療のみになる。
それは何度でも受けられるのだそうだ。医師がそう言ったらしい。。
が、ほんとのところ、再発のたびに何度も受ける人がいるのかは疑問だ。。
なぜなら、父は二度とその治療を受けることはないであろうと思われるからだ。
あの治療を受ける前の日、父は母に「やっぱりやめておこうかな。」と
ボソッとひと言だけ言ったらしい。
その後、終わったあとで「そんなこと言ったっけ?」と言ってたらしいが、
たぶん、もうそんなことも考えられる力さえ、残っていなかったのかもしれない。。
そして、
昨年暮れ、師走に入ろうかという11月の終わり。
奇しくもその日は私が手術を受けたあの日から、まる2年が経った日だった。
夜中に救急で、、正確に言うと、兄からケータイに連絡が入ったのは0:28だったから
すでに翌日になっていたけれど、、、
兄は実家から車で5分かからないところに住んでいて
私はJRと地下鉄を乗り継いで1時間のところに居るため、
ひとまず、連絡を待って!とのこと。そして眠れないままただ電話を待ち
次に連絡が入ったのは午前2時半すぎ。
とりあえず入院して今は落ち着いてるから、とのこと。
私は翌日になってから駆けつけ(?)た。
そのとき父は眠っていて、先生の話ではいろいろと検査の為しばらく入院を、、とのこと。
さらに翌日、だんなと病院に行くと、
父は起きていて、けれど声に力が無く、話すのもやっとで、、
けれどこちらの言うことはわかっているらしい。
「お水が飲みたい。」と言うので、病院の売店で水差しとお水を買って
病室に戻るとお水をよく飲んだ。そして「明日は何日だったっけ?」と聞くので
「明日は27日だよ。月曜日だよ。。」というと
しきりに指を折って、何かを数えている様子。。「なぁに?何かあるの??」と聞くと
「・・・・・。」何かしきりに話すのだけど、言葉にならず、こちらも聞き取れず、、、
そして、それが父と私の最後の会話らしい会話となりました。。。
あれから、もう10ヶ月になるんだ。
あのときは、年を越せるなんて誰もが思いもしなかった。
年賀状、毎年私が担当しているんだけれども、「どーしようか。。」って
ギリギリまで悩んでたもの。。。
そして兄は1月に仕事仲間の結婚式のため、ハワイに行くことになっていたのですが
前日になって急遽とりやめにした。
2月、誰もが父の誕生日を迎えられるとは思いもしていなかった。
けれど、点滴やら何やらのチューブでスパゲティ状態のあの日々を乗り越え、
3月(だったと思う)、ようやく胃ろうという直接おなかに穴を開け、
食べ物(といっても流動食ですが)を体内に送ることが出来るようになり、
ちょっとではあるが希望のようなものを抱き始めた頃
病院側から、「(父のような場合)もう治療法がないので転院を。。」と
勧められたのだ。
詳しく書くには時間が無いので、かなりはしょっていますが
4月になってそちらの病院は『急性期病院』に体制が変わったので
父のような、もう治療法が無く、治る見込みの無い患者さんは
よそへ移ってもらうしかないということらしい。
今の、厚生労働省の考えはそういうことなんだそうだ。
まぁ、いろいろと言いたいことはありますが、ここではやめておきます。
ところが、微熱が続いた状態で病人を動かすのは危険ということになり
ずるずると、父の日まで迎えることとなり、
(じつは、細木〇子の本によると、私の運勢で5月は「大切な人との別れ」と
あったので、誰にも言ってなかったけれども内心ビクビクしてたのです^^;
当たらないね、アレ!それよりも、うちの父の生命力のが強かったのか、、笑)
そうして転院先の病院との面談も済ませ、晴れて7月12日(木)に
新しい病院へと移ることが出来ました。
その後の父は、たまに熱を出すこともありますが
前の病院とは比べものにならないほど、心優しい看護(母曰く)を受け
とても安らかな日々を過ごしています。
この10ヶ月の間、心無い訪問者のせいで
母がたった一日だけ、お見舞いに行けなかった翌日に
これまで落ち着いていたはずの父が高熱を出すというハプニング以外は、、、。
母はショックだったようだけれど、何だか母が来なかっただけで
熱を出しちゃう父が子供のように思えて、可笑しくなりました。。
父がこれだけ頑張っているのには
必ず何か意味があるように思えてならないのです。。
そして、私はそれが何であるのか、日々模索中なのです。
ネットも本もたくさん調べて、ちょっと疲れて気が抜けてたりしたけど
やっぱり、父が私に伝えたいことが何であるのか、、
涼しくなってきたことだし、また少しずつ動き出そうと思っている
今日この頃、、、
もう一度、せめて母とだけでも会話することができないものかしらん、、、なんてね。
私のことについては、また今度。。。
by necomal
by yy_cattery
| 2007-09-24 19:49